旅の思い出<インド編>
先日テレビを見ていたら、インドの中流階級層狙いで日本の企業がインドをターゲットにしている話をしていた。
インドで思い出したので、旅ばなしシリーズ1「インド編」。
以前自分のサイト用に書いたものの、アップしなかったので、リライトしてみました。
長文です。GWにお時間ある方はどーぞ。
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当時は「ボンベイ」と言われていた現ムンバイに足を踏み入れたのは1991年、初めてのケニア行きの時だった。
夜10時頃ムンバイに到着し、翌日の午後ナイロビへの便に乗るというトランジット。
ナイロビで友達が迎えてくれるものの、そこまでは一人旅。
そういえは、一人旅のスタートは、この旅からだった。
ムンバイに着くまでのエアインディア内では、当時日本にいっぱいいたイラン人にしつこくつきまとわれ、いい加減アタマに来て、ムンバイに到着した途端、一目散に税関まで走った。
早くイラン人から解放されたかったから。
インドは目的地ではないので、当然荷物のピックアップもなく、一番乗りで空港の外へ出た私。
そしたらいきなりライフル銃を持った警官だか軍人がワタシの前に立ちふさがった。
こんな大きな銃を目の前で見た事なんて初めて。
警官は「わーわーぎゃーぎゃー」と全くわからない英語でまくし立てる。
(当時の私は今以上に英語ができなかった)
でもどうやら「なんでオマエは荷物を受け取らずに出て、そんなに急ぐのか!?」的なことを言っているようだったので、「明日、ナイロビへの乗換便に乗るから!」と、「Tomorrow」「Nairobi」「Transit」を繰り返していたら、いつの間にか警官はいなくなっていた。
ここですでにヘトヘトのワタシ。
次の試練は、航空会社が用意しているホテルまでの送迎バスを見つけて、それに乗ること。
ムンバイの空港はどこも薄暗い。
もちろん外はもっと暗い。
人がわんさかいる中で、送迎バス乗り場を見つけるなんて、不可能に近いと思った。
でも、どうにかするしかないので、手当たり次第のそこらへんの人に「○○ホテルに行くバスはどこ?」と聞いてみた。
みんなが教えてくれたバスに乗る。
バスの中は真っ暗で、暗さに慣れた目で見渡すと、回りはみーーんなターバン巻いたオジサンたち!
空港を出たバスは、すぐに何千?もの人がいっぱいいる場所を通り抜ける。
「この人たちは何をしているんだろう? 何か花火大会みたいなイベントがこれからあるのかな?」と思った。
とにかくすごいたくさんの人たちが広大な空き地に敷物を敷いて座っている。
次にトタン屋根のバラック小屋がいくつも現れた。
小さなランタンがその家々につるされている。
道には人もいっぱいいるけれど、牛もいっぱいいる。
「ここは町なのかな?」と思う。
バスの窓は全開になっていた。
いきなりこの地域に入った途端、バスが止まるたびに真っ暗なバスの中に窓からおびただしい腕がにょきにょき差し出される。
「バクシーシ!」
花火大会を待つ人でもなく、賑わった町でもなく、ここはスラムだと言うことに気づく。
今は知らないけれど、当時のムンバイは、国際空港の回りは巨大なスラムだった。
気づいてからはものすごくカルチャーショック。
乗り物に乗るとき、いつも窓際に座って外を眺めるのが好きな私だけれど、外からの腕につかまれるのが怖くて、思わず通路側の席に移動した。
「このままワタシはどうなってしまうんだろう?」と思った。
航空会社の送迎バスでないことは乗ってからわかった。バスの乗客で外国人はワタシひとり。
もう乗っちゃったからしょうがない!と覚悟を決めていたら、いきなりバスが止まり、乗客のターバン達が「○○ホテル!」とワタシを見ながら叫んでいた。
なんとか無事に目的のホテルには着いた。。。
レセプションに日本人男性2人組がいたので、ここまでの道のりを聞いてみたら、彼らはちゃんと航空会社の無料バスに乗ってきたらしい。
・・・バス代は日本円にして30円くらいだったけれど、よく無事に辿り着いたなーと思う。
なんだかすごい経験をしてしまったワタシ。
翌日も一悶着、いや何悶着もあった。
色々あって、ようやく空港に着いた。
両替所でルピーからドルに両替を頼んだら「なんでオマエは昨日ルピーに替えたばっかりなのに、またドルにするのか? あっちで申請の手続きをしてからココに来い」と言われ、行く先々でたらい回しにされ、あちこちさまよい歩き、まるで自分がドラクエとか(当時ハマっていた)RPGの主人公になったように思えた。
ようやくナイロビ行きを待つロビーに辿り着いたら、今度はいきなりワタシの名前を呼ぶ声。
振り向くと、昨日の機内でのイラン人軍団のリーダー。
うんざりしていると、彼が日本語で言う。
「相談にのってもらえませんか? 多くの家族たち(イラン人)が、日本にまた行けるのかわからないでいます」。
なんだろう?と話を聞いてみたら、いつの間にかワタシの前に神妙な顔つきをしたイラン人の列が出来ていた。
彼らは順番にワタシにパスポートを見せる。
よく見ると、パスポートにマジックで「退」の文字が○で囲んで書いてあるのだ。
「なんだこれ?」とワタシも思う。
当然イラン人はこの意味がわからない。
ワタシもわからないけど、「退」の文字は「退出」の「退」だ。
なんでマジックで書かれているのかは疑問だけれど、イラン人に「また私は日本に行けるか?」と聞かれ、「無理だと思う」と応えた。
リーダーのイラン人は「次の人!」と並んでいる他の人に声をかける。
「退」の文字を見るたびに同じことをワタシは言った。
そのたびに悲しそう顔をして、お辞儀をしてワタシの前から離れる人たち(^^;
ワケわからなかったけれど、あの時私が推測で「日本への入国は無理だと思う(これは強制送還なんじゃない?)」と応え、がっくりしていた人たちはその後どうなったんだろう…。
なんでマジックで「○退」って書いてあったんだろう? いつ誰が彼らのパスポートにそれを書いたんだろう? 本当に強制送還の意味だったのか? その後もずーっと気になっていることの1つ。
その時、10歳くらいのイラン人の女の子と仲良くなり、一緒に写真を撮ったり住所交換をしたりしておしゃべりした。
が、ケニアからの帰り、またムンバイで一悶着あった。
「オマエの荷物かどうか確認しろ」と言われ、機内預けの荷物を確認しに倉庫のようなところに連れて行かれた。確かにワタシのバッグだったのだけれど、どうもやっぱり問題があったようで、成田についたあと、バッグ(リュックにもなる大型ソフトケース)には無事会えたものの、外側のポケットに入れておいた撮影済みフィルムが全てなくなっていた。
どうやらムンバイで、“未使用フィルム”と思われて、盗られたらしい。
まぁこれはきちんと鍵をつけていなかったワタシの不注意でもあるけど、当然撮った写真は全滅。。。
ってことで、住所交換したイラン人の女の子に写真を送ってあげることもできず、ケニアでたくさん撮った写真もなくなり、さんざんなインドだった。
これだけで書くの止めるつもりだったのだけれど、もう1つだけ書いておこう(まだまだあるけど)。
イラン人から解放され、ナイロビ行きの飛行機がそろそろファイナルコールに近づいてきたとき、とりあえずトイレに行ってから搭乗しよう思った。
最初は誰もいないトイレだったのに、個室から出た途端、目の前ににこにこした老婆がいた。
手を洗おうとしたワタシより先に、彼女は蛇口をひねり水を出した。
無視していると、ワタシの手に石鹸らしき液体をかけてきた。
「No thank you!」というとやめたけど、手を洗い終わったワタシに、今度はピンセットでつまんだ濡れティッシュのようなものを差し出す。
どうやらこれで手をふけ、ということらしい。
あやしいのは見え見えだったので、またしても無視してトイレから出ようとしたら、なんとドアの前で漫画のように両手をヨコに広げ、彼女は通せんぼをしたのだ!
オマエのサポートをしたんだからお金を出しなさい、と。
あいにくトイレにはワタシとこのおばさんのふたりきり。
ロビーの向こうからはナイロビ行きのファイナルコールが聞こえてくる!
むかつくーーーー、と思いながらも英語で戦えないワタシは、10円玉を彼女に渡した。
彼女はしげしげと10円を眺め、こう言った。
「ノーノー、マダム。ワン ダラー」
結局ワタシはドアの前からどいてもらうために1ドルを彼女に渡してしまった。
ぐやじいいいいいいいーーーー。今思い出しても腹がたつけれど、それは「なんであなたに1ドルもあげる必要があるの!?そこどいて!」と英語で言えなかったワタシに対して悔しかったんだ。
インドのこういう人たちはとにかくたくましい。
これはインドに限ったことじゃないのは、その後たくさん学んだワタシです。
あの日のボンベイは、今のムンバイとどう違っているんだろう。
アメリカに例えると、ムンバイはインドのニューヨークと言う。
その後、仕事関係で知り合ったインド人のRさんと仲良くなった。
彼女のご両親は仕事の関係でケニアにいたこともあり、共通の話題がいっぱいあって、仕事外でも一緒に食事したり話をした。
その後彼女とも、仕事が離れたせいで連絡がとれなくなってしまったけど。
インドはここ数年、テロ事件も多くあった。ムンバイでの昨年11月のテロ事件は記憶に新しいところ。
隣国のパキスタンとの緊張はずっと続いている。
個人的には全く興味のないインドだったけれど、そんなわけで、やっぱりちょっと気になる国の1つになってしまった。
世界的にも高度成長を続けるインド。
どこへ目を向けても、そこにはインドと中国がいつも話題に出てくるほどの存在。
これからどうなっていくんだろう?


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